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中上 光さん(なかがみ養殖場)

プロフィール

中上 光(なかがみ・ひかり)

昭和30年(1955年)生まれ。西ノ島町珍崎の出身。島根県立隠岐高等学校、近畿大学農学部水産学科と進んだのち、西ノ島町へ戻り島根県栽培漁業センターに勤務する。 昭和54年(1979年)、先代である父・中上広司の後継者として、なかがみ養殖場の代表となる。昭和62年(1987年)には、種苗生産施設を新設し、イタヤ貝・ヒオウギ貝の種苗生産に成功。平成4年(1992年)には、日本で初めて岩ガキの養殖に成功し、第一人者として数多くのメディアに取り上げられる。 平成12年(2000年)には、岩ガキ生産者・漁協・隠岐4町村と島根県で「隠岐のいわがきブランド化推進協議会」を結成。徹底した衛生管理による安全・安心のブランドとして全国に流通している。現在は養蜂にも精力的に取り組んでいる。

西ノ島で始める養殖業

この島で暮らしたいけど、あんまり勤め人が好きじゃなかったので、いまのような仕事をしてるところがありますね。まず貝の養殖ちゅうのは、もともと(町に)無かったものです。30年以上前には、結構観光客も来とったね。昔、イタヤ貝を養殖していたころには、町内での売り上げも結構あったんですよ。観光ブームに支えられて、最盛期には町内だけで14万個のイタヤ貝が売れとったんですよ。いま思えば、ようそんなに数が売れとったもんだなと思う。
ただ、最初の頃は売れたんですけど、いっときのブームみたいに、だんだん売れなくなっていきましたね。天然採苗で稚貝を取ってたんですけど、昭和60年くらいには、もうほとんど商売にならなくなってしまって。それでヒオウギ貝の人工採苗を始めて食いつなぎましたね。

日本初の岩ガキ養殖

この頃より前から、岩ガキとかの2枚貝で、エサをやらんでも育てられるものの養殖をやりたい思ってね。そのために、この施設(種苗生産施設)を作って、いろんな情報を集めながら、先生にいろんな話聞きながらやってました。この建物を建てた翌年の夏に、岩ガキの親貝を取ってきて水槽に入れといたら、たまたま偶然に産卵があった。こりゃしめた!と思って、エサをやりながら飼っとったら、1週間で全滅してしまった(笑)それが昭和63年の夏でしたね。平成4年に、栽培センターにいろんなこと知っとる詳しい先生が「岩ガキをちょっと暇な時間にやってみよう思っとる」って言うから「あ、わしももっかいやってみるわ」って言ってやってみたんですよ。なぜか知らんけど、これがうまいことできてねぇ(笑)それは結局、ヒオウギ貝でエサを作るノウハウとか、そういうのが積み重なって、ちょっとずつちょっとずつ技術的にレベルが上がっとったんですよね。「できた!ついた!(貝殻に付着すること)」って先生に電話したらね、向こうは失敗しとって。えらい悔しがってましたけどね(笑)出荷の数は、だいたい毎年2万個ほどでした。それが当時の限界でしたね。それからいろいろ改良して、カキを綺麗にする機械・グラインダーを導入して、作業がようできるようになったんで毎年10万個を目標にして。今年は10万個達成できそうですけどね。

後継者として

養殖が盛んになりかけた頃に、私は戻って来て後継者になったんです。やり始めた頃に親父が言いよったのが、その前までは海苔の養殖やらワカメの養殖やらやってたんですけど、社会情勢が変わって、韓国から安くていいものがどんどん入ってくるからどんどんつぶれてしまうようになって。何をやるにしても、必ずつぶれるという時のことを考えて、必ず次何か用意しとかんと飯食えんようになるぞっちゅうのを。で、次イタヤ貝がつぶれたら何やるかっちゅうのをちゃんと考えとけって言われてましたね。
まだ未開拓の分野で、高級寿司ネタにもなる赤貝とかトリ貝の可能性も探っとったんですよ。ただ、たとえ少量であっても私が岩ガキを成功させて、一番に手を挙げて「できました!」って言ったのは正しかったなって思ってる。どうも儲かるらしいっちゅう話を聞きだすと、みんなどんどんやり始める。ただ、実際にやってると大変ですね。

岩ガキ養殖への挑戦と意地

岩ガキの養殖を考えるために集めた情報としては、まずは真ガキの養殖ちゅう先生がいるわけで。そのやり方を参考にしながらやってましたね。各地でいろいろやっている手法や収穫の方法を見ながら、どうもこういう方法のほうががいいなというものを見つけていきました。
たとえば、いま広島あたりでは吊るすのに、針金を使ってやってますね。東北ではロープでやってるんですよ。それぞれの方法にあわせて収穫の仕方が変わってきますね。針金じゃなくてロープにしたら、針金は錆びて切れるちゅう話も聞いとったんで。でもロープにしたけども、やっぱりシケとかになると擦れて落ちるんですね。だから、切れないような改良もしたし、工夫もしましたね。やりがいを感じるというか、意地ですね。「もうあとに引かんど」という意地です。未開拓の分野ですから、可能性はあるわけ。誰かがやってみてダメなのが証明されたもんでもないし、可能性は確実にあるわけですよ。ある意味、(周りから)変わってると言われるくらいじゃないと、やりきれんかもしらんですね。自分のブランドとしては「隠岐ひかり」と名前をつけてやってますね。

恵まれた自然環境

こんな良い入り江のある離島って、日本全国でも他にほとんど無いです。奄美大島と加計呂麻島の間にある海峡は、すごくいいらしいけど。他にそういう地形のとこって離島では他にないですね。山には木が豊かに生えてますから、雨が降ることによって山から栄養分、山で蓄えられた木の葉っぱとか土の中のミネラルが海辺の磯を養うっちゅうね。いやぁ、ほんとに無いです、こんな良い入り江っちゅうのは。こんな良い入り江がなかったら、こういう仕事は成り立たんですね、まず。平成4年に採れた岩ガキ第1号もとってありますよ。きれいでしょ。図書館に展示する?12年間飼ってた貝もありますよ。どれくらい生きるか試そうと思ってね。とっておくもんですなぁ(笑)12年目に台風にやられて、籠が落ちてしまってね。本当は、もうちょっと大きくなると思いますけどね。

(2018年7月19日 なかがみ養殖場にて)

インタビューを終えて(図書館職員のひとこと)

気さくにお話してくださった中上さんのお話は、とても前向きな言葉が多かったのが印象的でした。これまでたくさんご苦労もあったかと思うのですが、お話からは、ずっと前を向いてまだまだ進んでいくような勢いが感じられました。島で自分で仕事を成り立たせていくのは、すごく大変なことだと思います。やり通すという強い気持ちを感じられましたね。
残念なことに、これまで、また食べたいなぁと思うカキに出会ったことがないので、新鮮で美味しい西ノ島の岩ガキをぜひ食べてみたいと思っています。

前田幸子